理屈では説明できないのに、この人でなければいけないと感じる。条件で選んだわけではないのに、強く惹きつけられる。恋愛のこの不思議さを、正面から論じた哲学者がいます。
ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』の第2巻に「性愛の形而上学」という章を置き、恋愛感情を主題として扱いました。哲学が恋愛を軽い話題として避けていた時代に、これを人間を動かす最大級の力として論じた点で、異例の議論です。
個人の選択に見えて、そうでない部分がある
彼の見立てはこうです。恋愛において人が感じている「この人だ」という確信は、その人個人の好みや判断だけから来ているのではない。もっと大きな、生命が次の世代へ続こうとする働きが、個人の情熱という形をとって現れている——そう考えました。
だから恋愛は、当人にとっては人生の一大事なのに、外から見ると理由がよく分からない。当人が説明できないのは、そもそも判断の全部が意識の側にあるわけではないからだ、という理屈です。
彼はこれを「種の意志」という言い方で表現しました。個体の幸福とは別の目的が働いているので、恋愛が必ずしも当人を幸せにしないことも、この枠組みでは筋が通ります。
冷たい話に聞こえるが、使いどころがある
この見方は、恋愛の神秘性を壊すように聞こえます。実際、身も蓋もありません。
ただ、実用として効く場面があります。それは、恋愛でうまくいかなかったときの自責を軽くするときです。
「あんなに好きだったのに、なぜ続かなかったのか」「なぜあんな判断をしたのか」。この問いを自分の性格の欠陥として引き受けると、際限なく落ち込みます。そこに、判断の全部が自分の理性の管轄ではなかった、という視点が入ると、少し息がつけます。
自分が愚かだったのではなく、そういう力が働く場所に立っていた。この整理は、次に進むための足場になります。
情熱を疑うのではなく、期限を見る
とはいえ、すべてを大きな力のせいにして流されるのは、彼の議論の使い方としては雑です。
実際的なのは、強い情熱が起きているときほど、その情熱が続く期間を見積もることです。今日の確信が3年後も同じ強さであるとはかぎらない。これは冷めた見方ではなく、情熱の性質をそのまま認めた見方です。
情熱が薄れたあとに何が残るか——価値観、生活のリズム、話していて疲れないかどうか。そこを情熱の最中に少しでも見ておくと、あとで大きく外しません。
タロットでは「恋人」と「女帝」
恋人のカードは、惹かれ合いを示すと同時に、選択のカードでもあります。二人の背後に大きな存在が描かれている絵柄が多く、当人たちだけで完結していない構図になっています。個人の意志を超えたものが働いている、というこの章の話と重なります。
女帝は、豊かさと生命力のカードです。生み出す力そのものを示すので、種の意志という発想と最も近い位置にあります。
今日からできること
いま強く惹かれている相手について、「情熱が半分になっても続けたいと思える理由」を1つだけ書いてみてください。
書けたなら、それは情熱とは別の柱です。書けないなら、それが悪いわけではありません。ただ、いま自分が立っているのは情熱一本だと知ったうえで進むほうが、あとから来る揺れに耐えられます。